奈良龍大会・親睦交流会 於 【法華寺、海龍王寺】 〔6〕 [2009年11月10日(火)]
|
海龍王寺の歴史も古い。
奈良県史(奈良県史編集委員会 平成3年 名著出版)によれば「寺伝による天平3年(731)光明皇后の本願で造立された寺というが、白鳳時代の古瓦を出土しているので、平城京建設以前にもなんらかの施設があったとみられる。」としている。 白鳳時代とは日本文化(美術史)の時代区分で用いるが、飛鳥時代と天平時代の間、つまり7世紀後半から8世紀初め、とりわけ672年の壬申の乱の後の天武朝、持統朝の頃の仏教美術の興隆期を示すことが多い。 ![]() 上は海龍王寺の東側の南北に通る道路に面した表門で、下は拡大したものである。 『続日本紀』天平10年3月28日(738年)に「施隅院食封一百戸」とあり、天平神護2年(766年)には「奉請隅寺毘沙門像所現舎利於法華寺」と記されている。それが、『七大寺巡礼私記』保延6年(1140年)に海龍王寺の寺号が出てくることから海龍王寺が建てられて後の初期に於いては皇后宮(法華寺)の隅寺とか隅院という意味合いのものでなかったろうかと前掲の奈良県史では記している。 ![]() 隅かどうかは別にして写真のように飾りっ気のない風情は大和のお寺に共通するものであり、古都奈良と京都の違いを私は高校生の頃より感じてきたが、それぞれの時代の文化の違いが様々な建造物の構造や形、色彩などに表れていることがこれらの写真でも感じられるところである。 ![]() 表門を入ったところには築地塀があり、瓦を敷いて壁土を積み重ねただけの質朴さは小さかった頃に受けた大和の寺のイメージそのままである。 高校生の頃までの記憶では大きいお寺を除いて壁土を積んだ塀も大きく壊れていて自由に出入り出来ていたようにも思う。 植え込みの木に挟まれた狭い小道のような参道を歩むと小さな東門に至る。 ![]() 通常拝観の場合は東門を入ったところで拝観料を奉納するが、今回は特別に通らせていただいた。多謝。 海龍王寺の開基は玄ム。 玄ムは養老元年(717年)に学問僧として唐に渡り法相を学び、玄宗皇帝に才能を認められて紫の袈裟を授けられ帰国している。その後天平7年(735年)にも唐に渡り一切経5000巻を得て吉備真備らと帰国した。 海龍王寺の境内をパノラマにしてみたが左右の写真の条件が同じではないので少々見づらいものになってしまった。 ![]() 向って右側が本堂で左手が西金堂である。 海龍王寺は、平安時代初期には隆盛をほこっていた興福寺の管理下にあって住持も興福寺の学僧が任じられていたらしいが、1180年(治承4年)の平重衡による南都焼討ちが行われた頃には寺の衰退もひどかったようである。 ちなみに法華寺の復興に精魂傾けたのは西大寺中興の祖と言われている僧・叡尊(興正菩薩)であると書いてきたが、彼はこの海龍王寺に住み、この寺でも真言律宗を説き広めてきている。 ![]() 写真上下は木造十一面観音立像で室町時代の作品で重要文化財である。 ※ 上下の写真はお寺で頒けて頂いた図を複写したものである。 ![]() 優しく落ち着いた表情の観音さんであり、静寂なお寺によく調和している。 本寺には鎌倉時代中期の(伝)運慶の作による木造文殊菩薩立像も安置されているがこれも重要文化財である。 下は西金堂(重要文化財)の内部に置かれている五重小塔で奈良時代に制作されたものであり国宝に指定されている。 ![]() 高さは約4.5メートルあり、木製二重の壇上にあって建築様式上は薬師寺東塔に似ている。 五重小塔を納める西金堂は奈良時代の建築であるが鎌倉時代に大改修が行われており、一部にの用材に天平時代のものが含まれている。 下は経蔵で1288年(正応元年)、僧・叡尊によって建立されたもので国の重要文化財の指定を受けている。 ![]() 今回は不退寺(不退転法輪寺)へは回らなかったが、809年(大同4年)に平城天皇が平安京から平城京に帰った時に住んだ所で「萱の御所」とも呼ばれた不退寺にも藤原時代の作品で重要文化財、木造・聖観音立像がある。 佐保路・佐紀路を巡るなら、法華寺、海龍王寺、不退寺の三観音を巡るコースを組まれることを勧める。 春秋2回の本尊特別開扉期日が設定されているが、法華寺の庭園や慈光院公開と併せて拝観されるならば10月25日から11月10日の間に巡られると良い。この時期は正倉院展の開催期日とも重なるので好都合である。 |
























































