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奈良龍大会・親睦交流会 於 【法華寺、海龍王寺】 〔6〕 [2009年11月10日(火)]

海龍王寺の歴史も古い。

奈良県史(奈良県史編集委員会 平成3年 名著出版)によれば「寺伝による天平3年(731)光明皇后の本願で造立された寺というが、白鳳時代の古瓦を出土しているので、平城京建設以前にもなんらかの施設があったとみられる。」としている。

白鳳時代とは日本文化(美術史)の時代区分で用いるが、飛鳥時代と天平時代の間、つまり7世紀後半から8世紀初め、とりわけ672年の壬申の乱の後の天武朝、持統朝の頃の仏教美術の興隆期を示すことが多い。
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上は海龍王寺の東側の南北に通る道路に面した表門で、下は拡大したものである。

『続日本紀』天平10年3月28日(738年)に「施隅院食封一百戸」とあり、天平神護2年(766年)には「奉請隅寺毘沙門像所現舎利於法華寺」と記されている。それが、『七大寺巡礼私記』保延6年(1140年)に海龍王寺の寺号が出てくることから海龍王寺が建てられて後の初期に於いては皇后宮(法華寺)の隅寺とか隅院という意味合いのものでなかったろうかと前掲の奈良県史では記している。
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隅かどうかは別にして写真のように飾りっ気のない風情は大和のお寺に共通するものであり、古都奈良と京都の違いを私は高校生の頃より感じてきたが、それぞれの時代の文化の違いが様々な建造物の構造や形、色彩などに表れていることがこれらの写真でも感じられるところである。
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表門を入ったところには築地塀があり、瓦を敷いて壁土を積み重ねただけの質朴さは小さかった頃に受けた大和の寺のイメージそのままである。

高校生の頃までの記憶では大きいお寺を除いて壁土を積んだ塀も大きく壊れていて自由に出入り出来ていたようにも思う。

植え込みの木に挟まれた狭い小道のような参道を歩むと小さな東門に至る。
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通常拝観の場合は東門を入ったところで拝観料を奉納するが、今回は特別に通らせていただいた。多謝。

海龍王寺の開基は玄ム。

玄ムは養老元年(717年)に学問僧として唐に渡り法相を学び、玄宗皇帝に才能を認められて紫の袈裟を授けられ帰国している。その後天平7年(735年)にも唐に渡り一切経5000巻を得て吉備真備らと帰国した。

海龍王寺の境内をパノラマにしてみたが左右の写真の条件が同じではないので少々見づらいものになってしまった。
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向って右側が本堂で左手が西金堂である。

海龍王寺は、平安時代初期には隆盛をほこっていた興福寺の管理下にあって住持も興福寺の学僧が任じられていたらしいが、1180年(治承4年)の平重衡による南都焼討ちが行われた頃には寺の衰退もひどかったようである。

ちなみに法華寺の復興に精魂傾けたのは西大寺中興の祖と言われている僧・叡尊(興正菩薩)であると書いてきたが、彼はこの海龍王寺に住み、この寺でも真言律宗を説き広めてきている。
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写真上下は木造十一面観音立像で室町時代の作品で重要文化財である。

※ 上下の写真はお寺で頒けて頂いた図を複写したものである
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優しく落ち着いた表情の観音さんであり、静寂なお寺によく調和している。

本寺には鎌倉時代中期の(伝)運慶の作による木造文殊菩薩立像も安置されているがこれも重要文化財である。

下は西金堂(重要文化財)の内部に置かれている五重小塔で奈良時代に制作されたものであり国宝に指定されている。
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高さは約4.5メートルあり、木製二重の壇上にあって建築様式上は薬師寺東塔に似ている。

五重小塔を納める西金堂は奈良時代の建築であるが鎌倉時代に大改修が行われており、一部にの用材に天平時代のものが含まれている。

下は経蔵で1288年(正応元年)、僧・叡尊によって建立されたもので国の重要文化財の指定を受けている。
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今回は不退寺(不退転法輪寺)へは回らなかったが、809年(大同4年)に平城天皇が平安京から平城京に帰った時に住んだ所で「萱の御所」とも呼ばれた不退寺にも藤原時代の作品で重要文化財、木造・聖観音立像がある。

佐保路・佐紀路を巡るなら、法華寺、海龍王寺、不退寺の三観音を巡るコースを組まれることを勧める。

春秋2回の本尊特別開扉期日が設定されているが、法華寺の庭園や慈光院公開と併せて拝観されるならば10月25日から11月10日の間に巡られると良い。この時期は正倉院展の開催期日とも重なるので好都合である。
Posted at 11:46 | この記事のURL | Clip!!

奈良龍大会・親睦交流会 於 【法華寺、海龍王寺】 〔5〕 [2009年11月09日(月)]

ここまで法華寺について書いてきたが、本来冒頭に掲げるべきものであったかもしれないご本尊を最後にしてしまった。

別に意図して配置したわけではない。

強いて言えば仏像は偶像であり、私にとっては仏教美術としての価値を持つものであって信仰の対象ではないということである。

キリスト教におけるイコンも同じであり、仮に仏像やイコンその物を信仰対象にしている人たちがいたとしても、その人たちの信仰を否定するものではないということを断っておく。

下の写真は法華寺の本尊・十一面観音立像である。
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※ 本堂内は撮影禁止のため、上下2枚の写真は寺で売られていたカードを複写したものである

平安時代初期の作品で木造素地で国宝に指定されている。

腕と体全体の長さのバランスに「おや?」と思ったのだが、穏やかで優しい表情は衆生救済の大慈大悲の本願を内に秘めていると思えるものである。
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観音様(観世音菩薩)は阿弥陀如来の脇侍であり、衆生の求めに応じて様々な姿に変えられると言われている。

三十三観音はよく聞くが、11の顔を見せて頂いているということだろうか。法華寺の「拝観のしおり」では光明皇后の姿として崇めているということであるが・・・

本尊・十一面観音立像は、本堂・桃山様式の須弥壇上に安置されており春秋に厨子が公開されるが、最後に期日を紹介することにする。

下は国史跡名勝の庭園である。
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本堂の左手(西側)に御所の庭園を客殿とともに移築したと伝えられていることから『仙洞うつし』と呼ばれる江戸初期の庭園がある。

写真の池を中心に500坪の広さを持つ庭園は木々の緑と様々な大きさの石や白砂で構成され、奥行きの感じられる庭となっている。

写真右手は本堂の甍、左手には切妻造の客殿と入母屋造の上の御方の屋根が見える。

池を巡る小道を歩いていると木々の茂みの向こう、築地塀の際に宝篋印塔を発見した。
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宝篋印塔については大分県国東半島を訪れた折のページにも紹介しているが、墓碑であったり供養碑であったりするが、この宝篋印塔については制作年代も分からなかった。

寺男が歴代の門跡さんのお墓だと言っていたが実際のところは不明である。

その寺男が教えてくれたのが下の写真。
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黄色や黄緑色の大きい花梨の実が幾つもぶら下がっていたのである。

花梨はマメ科の木で印度紫檀とも言われベトナム、ビルマ、タイ北部に多く産出し建築材として使用されている高木である。

実(み)は以前に見たことがあるのだが、実際に木に実っている状態を見たことがなく、今回初めて目にすることができ大感激であった。

60数年にして初めて・・・世界中にはまだまだ経験していない事が沢山沢山ある。これからも見聞を広めることができるように願うばかりである。

下の赤い実は多分クロガネモチであろう。

寺男が厳しく注意。
「ヤシの実が落ちるようにドスンと花梨の実が落ちるので木の下に行かないで!」

怖い怖い。

下は拝観入口(東門)の直ぐ横手にある横笛堂。
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横笛は『平家物語巻十「横笛」』のことである。

「高野に年ごろ知りたまへる聖あり。三条の斉藤左衛門大夫茂頼が子に、斉藤滝口時頼と云ひし者也。もとは小松殿の侍也。十三の年、本所へ参りたりけるが、建礼門院の雑仕横笛といふおんなあり。滝口是を最愛す。」

舞台は京都。斉藤茂頼の子である滝口時頼(後の滝口入道)が平安京の内裏の警護の侍に任ぜられたが、建礼門院(平清盛の次女で高倉天皇の皇后、壇ノ浦の戦で安徳天皇を抱いて入水、後に大原寂光院に住む)の雑役をしていた下級女官である横笛と恋仲となった。

しかし、それを伝え聞いた父親が、身分の低い者を思い慕うとはと強く注意したところ、不老長寿の仙人と言われた人であっても今はいないし、老いた者から順に世を去るという決まりもない、人生というものは短いものであり好きでもないものと結婚してもつまらない、真に愛する者と共にありたいと望めば親の意見に逆らうことになってしまうと、

「十九のとし、もとゞりきッて、嵯峨の往生院に」て仏門に入ってしまった。

これを伝え聞いた横笛は、私を見捨てるのはともかく、なぜ言ってはくれなかったのか、あなたの意志が強いことは分かっているが会いたいものだと往生院を尋ねるが、滝口入道がお経を唱える声を耳にするも他の僧侶から尋ねる者はいないと断られ、情けなく恨めしく思いつつ横笛は帰って行った。

滝口入道は出家の意志を曲げまいと高野山・清浄心院に向かい、「そるまでは うらみしかども あずさ弓 まことの道に いるぞうれしき」との歌を横笛に送った。

それに対して横笛は「そるとても なにかうらみむ あずさ弓 ひきとゞむべき こゝろならねば」と返歌を送り、奈良の法花寺(法華寺)にて修養の道に入ったようだが、平家物語では「いくほどもなくて遂にはかなく成りにけり。」と彼女が亡くなったことを記している。

一方、滝口入道は横笛が亡くなったことを伝え聞いて一層仏門修養に精魂込めていたところ父親も勘当を解いたというのが横笛の項の話の流れである。
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いろいろな意味合いで考えさせられるお話である。

上の写真は、光月亭。

奈良県月ヶ瀬村の民家を移築したものだが、18世紀の建築物と推定され、法華寺の一部としてうまく調和している。

月ヶ瀬は梅林があることでも有名な山間の村である。

法華寺に関してはこれにて終了。








Posted at 08:38 | この記事のURL | Clip!!

奈良龍大会・親睦交流会 於 【法華寺、海龍王寺】 〔4〕 [2009年11月07日(土)]

法華寺の拝観入口を入って正面方向に『からふろ』がある。

『からふろ』を漢字で書くと『空風呂』、つまりスチームバスと思って良い。

下の写真は『からふろ』の建物であり、室町時代後期に改築されたもので国の重要有形民俗文化財に指定されている。

敷石(甎・しきかわら)の一部は天平時代のものが残っているとか。
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※ 法華寺の「拝観のしおり」には室町時代後期の改築と書いてあるのだが、前掲の奈良県史では建物は江戸中期の建築としている。 果たしてどちらなのか、これは尋ねてみる以外にない。

この建物も通常は竹の結界があり建物の裏手へは入れないが、有難いことに焚き口の戸も浴室裏手の戸の鍵も開けて内部を見せてもらうことができた。

焚き口の戸は建物の右手にあるのだが、その入口を入ると半地下の位置に竈が設えられてあり竈には大きいお釜が据えられている。
釜の手前には半円形の分厚い木製の蓋が置かれ、奥の半円分は浴室の床下に埋もれている。
つまり、焚き口で薪を燃やすと竈に設えられたお釜の水が熱せられて湯気を出す。焚き口の方の手前半分は蓋をしてあるので湯気は出ず、湯気は浴室の床下に流れ込む。

下は建物内部の浴室であるが、浴室は木で囲われ、床の部分は簀子(スノコ)状に床板と床板の間に隙間が作ってある。
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上の浴室の写真、右奥部分の下にお釜の半分の部分が潜り込んでおり、お釜から出た湯気が浴室の床下に流れ込み、床板の隙間から浴室内に流れ込んで浴室がスチームバス、つまり蒸し風呂の状態になるのである。

光明皇后はお釜で薬草を煎じて1000人の者たちを入浴させ、重い皮膚病を治したと伝えられているが、この浴室は詰めて入ってもせいぜい10人が限度かと・・・。

実際に湯を沸かしてこの浴室に入ったわけではないので仕組みの上から想像するだけだが、浴室内の湿度は相当高く、温度は我慢しなければならないほどには高くならないのではないだろうか。
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左の写真は『犬のお守り』。

光明皇后が護摩供養の灰と清浄な山土で手ずから作り、諸人の病苦災厄難産を除くべく授けたのに始まるとというもので、歴代門跡がこれを相伝し、本尊に捧げて祈祷のうえ参拝者に授けている。

蒸し風呂=スチームバスと言えばローマ人のカラカラ浴場が有名であり、彼らが侵攻した地には遺跡として各地に残っている。

風呂の成り立ちという点では紀元前のエーゲ文明におけるバスタブが残っているが、これが最も古い遺物になるだろうか。これは湯、或いは水を入れて浸かっていたものと推量されるが、湯水を容器に入れて浸かる方式と湯気を発生させる方式の蒸し風呂という2つの形式が風呂と呼ばれる歴史を伝えてきたことは間違いない。

法華寺は蒸し風呂であるが東大寺には鉄製の浴槽(大鍋のような)が残っており、日本での風呂の歴史は奈良時代からと考えても良いようだ。

韓国には『汗蒸幕(ハンジュンマク)』や『岩盤浴(チムジルバン)』があるし、フィンランドにはサウナがある。 いずれもその起源については分からないが調べてみると面白そうだ。

ちなみに40年ばかり以前には日本の歓楽街でトルコ風呂というスチームバスが売春防止法施行後の風俗店として幅を利かせるようになっていた。

トルコ風呂というのはローマ風呂と同じで蒸し風呂と冷水風呂を用いた入浴方法であるが、日本でトルコ風呂の名前を冠した風俗店は売春を目的としており、トルコ側(大使館)からクレームが出て以後呼称が変更された。

現在、ファッション・ヘルスなどと名前をつけている風俗店がその流れを汲むものである。

俗世間とは縁の無いお寺のことを書いているのにそぐわない話であった。
Posted at 16:20 | この記事のURL | Clip!!

奈良龍大会・親睦交流会 於 【法華寺、海龍王寺】 〔3〕 [2009年11月07日(土)]

法華寺の由来については前のページで、藤原不比等(鎌足の子)の死後、娘である光明皇后がその邸宅を皇后(おほきさき)の宮とし、それを宮寺としたことが『続日本紀』・天平十七年五月戊辰条に『旧皇后宮為宮寺也』と記されていると書いた。
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左の写真は法華寺に拝観入口である。

写真の左下はアスファルト舗装道路で左方向に進むと法華寺南門の前を通って平城宮跡の大極殿跡の前に至る。

右手には法華寺の駐車場がある。


しかし、金光明寺写経所の天平十六年六月(744年)の文書記録に法花寺の名前が見えることから、皇后宮から宮寺になる前に法花寺という尼寺(国分尼寺)があったとし、正倉院文書のひとつ法華寺政所牒の天平十九年正月二十日(748年)の項に法華寺の名前が出てくるので、法華寺という名称はこれ以降のことであると奈良県史(平成3年)には書かれている。

細かな年号は史家に任せるとして、法華寺の造営は造法華寺司という役所が執り行い、東大寺は造東大寺司が受け持つというように国分(尼)寺の造営は国家事業であった。
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写真は桃山時代に再建された法華寺南門で、国の重要文化財の指定を受けている建造物である。

この南門のアスファルト道路の左手奥の方に平城宮跡がある。

門前の石柱には総国分尼寺・法華滅罪之寺と刻まれている。







下の写真は南門から本堂(金堂)を撮ったものである。
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この本堂も上の南門も、後に紹介する鐘楼、これらはいずれも桃山時代後期 1601年(慶長6年)から翌1602年(慶長7年)にかけて豊臣秀頼の母・淀君の発願で片桐且元が奉行となって再建されたもので、いずれも国の重要文化財に指定されている。


法華寺の伽藍が完成したのは782年(延暦元年)の頃で、本堂(金堂)、東西両塔、講堂、食堂、鐘楼、経蔵、中門、東門、南大門、更に南側には阿弥陀浄土院も配置された壮大な伽藍配置であったらしい。

この年に造法華寺司が廃止されているが、日本に仏教が伝えられて(538年)から二百数十年を経ている。

ちなみに歴史学研究編の日本史年表(岩波書店)や多くの学者は百済聖明王が仏像と経論を贈ってきたことをもって正式の仏教伝来としているが、日本書紀の記述によれば552年(欽明天皇十三年壬申)となっている。

記紀の記述内容に関しては信頼するには乏しい面が多いので、複数の根拠をもって主張される538年伝来説が正しいように思うが疑い始めれば限が無い。

で、下の写真は重文の鐘楼である。
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仏教の受け容れについては蘇我稲目と物部尾輿・中臣鎌子らの対立を生み、やがて彼らの子どもである蘇我馬子と物部守屋・中臣勝海の政権争奪戦に発展したことはよく知られていることである。

以後、仏教は政治を行う上での重要な支柱となり、朝廷や豪族(貴族)と寺・僧侶との結び付きも強くなっていった。

適切な言葉では無いが国家仏教と言えるほどの保護を受ける寺は律令政治の財政の冗費を生み、朝廷と寺の癒着は弓削の道教のような権力志向の僧侶を生み出すなど寺院・僧侶の腐敗・堕落を招くようになり、それらを刷新するようにして長岡京の造営、平安京への遷都と時代が変わっていった。

平安京には新たに東寺・西寺が造営され、平城京の寺が新京に移ることも無かった。

平安時代の初め頃は法華寺に入門する尼僧の数が増え、797年(延暦16年)には勅許が無いと入寺できないようになった時期があったらしいが、898年(昌泰元年)の記述(扶桑略記)では宇多上皇が法華寺の堂舎の破壊状況を見て嘆いたとあり、1180年(治承4年)には平清盛の命令によって南都を攻めた平重衡の焼討ちによって反平氏勢力であった東大寺、興福寺などと共に法華寺も焼かれたため東西両塔の他は堂宇の大半が灰燼に帰したらしい。(参考・奈良県史ほか)
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この当時については法華寺が「拝観のしおり」として配布する『光明宗・法華滅罪寺畧縁起』では「(略)しかしながら時勢とともに寺運ようやく衰え、中世の記録はさだかではありませんが、叡尊興正菩薩の再興、さらには豊臣秀頼公の外護、徳川氏の寺領二百二十石寄進などあったとは申せ、ついにほとんど旧来の寺観を失うて今日に及びました。(略)」と記しているように、都が京都に移って朝廷の絶大な保護の手から遠のき、政治権力が藤原氏に集中するのに付随するかのごとく南都においては藤原氏の氏寺である興福寺や氏神である春日社が勢力を持ち、東大寺を除く他の寺は衰退の一途を辿っていたようである。 (写真は浮御堂と本堂)

1192年(建久3年)の『建久御巡礼記』には「棟破甍顕、壇頽靡傾、春朝雨不留、秋暁風無障子」と法華寺の様子を描写している。 『本堂の棟が落ちて屋根の瓦があらわになり、お堂の壇は崩れて扉は傾いている。春の小雨を止めることも秋の明け方に吹く冷たい風を防ぐ障子も無い』と、それほどにひどい有様だということである。

1227年(嘉禄3年)に法隆寺の別当(住職)範円が記した解状には「僅見七代寺、東大・興福両寺仏法繁昌堂宇壮麗、元興・大安・西大寺所其衰滅無隆力、僅依寺務秘計暫支仏法慧命者、只薬師寺・法隆寺已」と書いているが、寺として栄えているのは東大寺と興福寺だけで、元興寺や大安寺、西大寺などは隆盛時の力も無く衰滅している。わずかに仏に帰依する者たちが将に細々と勤めを行っているのは薬師寺と我が法隆寺のみであるという意味であろう。
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写真は客殿や尼僧の生活の場である庫裏への通路であり、左手が本堂で突き当たりの建物が客殿である。

この門には『久我高照』と墨跡鮮やかな木製表札が掲げられていた。

通常写真のような木製結界があり、一般には出入りできない。

そのような荒れ果てた法華寺の修復を最初に行ったのが東大寺の大勧進職で、平重衡の焼討ちにあった東大寺の再建を担った俊乗房の僧・重源であり、御堂、塔2基、丈六仏を修復したとある。

その後本格的な復興を手掛けたのが西大寺中興の祖と言われている僧・叡尊(興正菩薩)である。

しかしその後1408年(応永15年)の火災で西塔が焼失。1499年(明応8年)戦国時代にあって室町幕府管領であった細川政元の家臣として赤沢朝経が大和を攻めた際に堂塔・僧坊が罹災、1506年(永正3年)にも兵火に遭って大方が滅亡。本堂のみ残材により再建するも1596年(慶長元年)の地震で倒れてしまったらしい。
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左の写真及び下の2枚の写真はいずれも国宝であり『絹本着色阿弥陀三尊及び童子像』である。

いずれも慈光殿(宝物殿)にて見ることは出来るが写真撮影は禁じられており、ここに掲載したものは売られていたものを複写したものであることを断っておく。

ところで前述した1596年(慶長元年)の地震であるが、この地震は「慶長伏見地震」と呼ばれ、有馬〜高槻断層系のものであったことが分かっている。

この地震の4日前に豊後地方で大地震が発生し、別府湾を襲った大津波によって現在の大分市地域の大半の家屋が流失するという大変な被害が起きている。地震規模は古書などによる推定であるがM7.0前後であったと言われている。




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前述したが淀君発願で1601年(慶長6年)から翌年にかけて本堂(金堂)・鐘楼・南門が再建されたが、1707年(宝永4年)の大地震で残っていた東塔が倒壊して現在に至っているようである。

法華寺について、「拝観のしおり」として配布されている『光明宗・法華滅罪寺畧縁起』で「中世の記録はさだかではありませんが」と書かれていた中世の部分を埋めるように書いてきたが、書き始めると結構奥が深いもので随分端折ったつもりであるがイマイチである。

法華寺は現在の宗派を光明宗としているが、西大寺中興の祖と言われる叡尊が法華寺の復興を手掛けて以来、真言律宗に属してきたことは分かった。






img20091107_4.jpgしかし元々の宗派、つまり叡尊が法華寺の復興を手掛けた以前はどうだったのだろうかと新たな疑問が起きてきた。

これについてはぼちぼち調べてみることとして、もう少し法華寺について書いてみよう。

【次ページに続く】 
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奈良龍大会・親睦交流会 於 【法華寺、海龍王寺】 〔2〕 [2009年11月04日(水)]

息子達が小さかった頃、ラグビーボールを持って度々平城宮跡を訪れた。

戒壇前に広がる草地は子ども達がボールを持って遊ぶのに都合が良かったし、春から秋にかけては虫たちもいて楽しい時を過ごすことができた。

私達が平城宮跡に行かなくなったのはゴルフ練習のために大人達がやって来るようになったからであった。

これはもう危険極まりないことであり、紳士のスポーツと言われるゴルフをする人達が他人の迷惑どころか危険であることを分かりながらもボールを打つ姿にあきれ返って行かなくなってしまったのである。

またまた表題とかけ離れてしまうので軌道修正。

奈良龍大会の親睦交流会は法華寺の客殿をお借りして、門跡・久我高照師の講話を聞かせて頂くことから始まった。
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司会は奈良龍大会のお世話を頂いている十輪院の法徳寺の倍巖良明師。 彼はずっと後輩になるが父君ご健在ならば副住職だが常に笑顔を絶やさずよく努めて頂いている。

冒頭の挨拶と門跡・久我高照師の紹介は薬師寺の執事長・村上太胤師(写真・・・現在も執事長かどうかは不明)。

彼は学部学年とも同じであったが学科・専攻が異なっていたため本会で知るまで交流はなかった。

久我高照師については門跡と書いたが、聖武天皇の勅願によって日本の総国分寺として建てられた東大寺に対して、法華寺は光明皇后の御願により日本総国分尼寺として創められた別称『法華滅罪之寺』であり、745年(天平17年)創建以来門跡尼寺として今日に至っている。

法華寺の建っている場所はもともと藤原不比等(鎌足の子)の邸宅があった所で、不比等が亡くなった後に不比等の娘、つまり光明皇后が皇后(おほきさき)の宮とした。それを宮寺(法華寺)としたことが『続日本紀』・天平十七年五月戊辰条に『旧皇后宮為宮寺也』と記されている。詳述を省く。引用参考・続日本紀三・新日本古典文学大系14・岩波書店〕

門跡寺院というのは皇族や貴族の子女などが住持職を務める格式の高い寺院であり、久我高照師も旧・華族で村上源氏に連なる久我(こが)家の方。 そして、女優の久我美子(芸名・くがよしこ)の叔母にあたるのだとか・・・これは伝え聞いた話。
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師のお話では14歳で入門し、現在88歳になられたとか。

しかしながらとてもお元気そうで、当初姿勢良く立ったままでお話を始められたのだが、進行を務めた倍巌氏も気付かなかったのも無理なきことかと。私もお座り頂いてと声を掛けようとしたのだが、張りのある良く通る声で淀みなくお話を続けられるので割り込むタイミングを見つけにくかったこともあった。

門跡さんから見れば遥かに若造の私たちが座っているのに、これは全く汗顔の至り。誠に申し訳なく、この場でお詫び申し上げる。

門跡さんの講話は前段で、法華寺が創建されて以来多くの人々の信仰を集めて立派な伽藍に広い寺領を頂いてきたが、廃仏毀釈の流れの中で南都の他の寺院同様に寂れたものになってきたという寺の歴史、また、女人修養の道場としての尼寺も仏道に精進しようとする女性が少なくなってきている現状と、そうした状況に対する思いや法華寺でのお勤めの様子を紹介された。

後段の部分では自ら華道『法華寺小池御流』の家元として、また仏様にお花をお供えする門跡の立場からお花について、たとえ一輪の花であっても花というものは心を和ませ癒してくれる素晴らしいものである、しかし最も大切なのはその素晴らしい花を真心込めて活けようとする心なのだと話して頂いた。

先ずは家庭で花を活けてみて下さいと門跡さんは勧められた。

単にお花の話?・・・いかように聴くかは聴き手次第。

門跡さんのお話をじかに聴くという機会はそうそう無い。広い客殿に用意された座布団は大阪支部からの参加者もあってぎっしり詰まっていた。
Posted at 11:50 | この記事のURL | Clip!!

奈良龍大会・親睦交流会 於 【法華寺、海龍王寺】 〔1〕 [2009年11月03日(火)]

奈良龍大会については以前にも書いたが、龍谷大学校友会奈良県支部の略称である。

今年、創立370周年を迎えた龍谷大学は親鸞聖人開祖の浄土真宗・本願寺が江戸時代の1639年(寛永16年)に『学寮』として開設した教育機関を前身としており、幕府・昌平黌(後の東京大学)や藩学(藩校)の創設に先駆けて組織的教育活動を開始したことは日本教育史上において特筆されることである。

有史以来、ヨーロッパにおいても日本においても教育作用が宗教と深く結び付いて発展してきたことはよく知られていることであり、僧侶を養成する一方で一般子弟教育の中心的役割を果たしてきたのが教会であり寺であった。

古く奈良時代にあっては東大寺の勧学院を思い浮かべるのだが、教育史はともかくとして現在の奈良龍大会の会長は第219世東大寺別当(住職)で華厳宗管長の上野道善師である。師は昭和37年卒業だから70歳になられるのであろうか、先輩である。

仏教系の大学であるから寺院子弟の卒業生も多く、東大寺では第206世東大寺別当・上司海雲師、第207世、第208世東大寺別当・清水公照師らがおられた。面識はないが現在も東大寺上院院主として務めておられる北河原公敬師も先輩になる。

話を戻すが、10月31日(土)に奈良龍大会の行事として法華寺と海龍王寺の参拝・見学という親睦交流会が催されたので出席してきた。
img20091104.jpg

上の地図は奈良市観光情報センターが提供する地図のうち、平城宮跡付近を拡大して赤色や青色で私がマーキングしたものである。(原図はココをクリックすればリンク)

今回は青色線でマーキングした法華寺と海龍王寺のみ訪れたのだが、奈良を観光しようとされる人たちに紹介する意味で両寺の周辺地域の地図を掲載してみた。

この平城京の宮跡の辺りの地名を『佐紀』と呼び、地図上の右下に流れる川(灰色表示)が佐保川で、国道24号線が通っている辺りの地名を『佐保』(「さお」とも)と呼んでいる。

奈良時代、『佐保』と呼ばれていた辺りは高官たちの邸宅が建っていた地域であるが、現在は田地とマンションが混在している。

私は近鉄・奈良線の新大宮駅で下車。 友人宅を訪問して後、赤色実線の道を歩いたが往復しての歩行時間はゆっくり歩いて40分かからずの距離である。

地図上で赤色下線を付した所が点在しているが、春や秋の季節には、それらをのんびりと散策して巡るのにお薦めの地域である。

西大寺駅からスタートしても良いし、西大寺駅から京都線の一つ目の平城駅からでも良い。 平城駅の北に神功皇后陵、南側に成務天皇陵と称徳天皇陵、日葉酢媛命陵があり、黒色の丸い点の通りに歩けば平城宮跡へ出る。

平城宮は元明天皇の710年(和銅3年)、持統天皇の694年から都であった藤原京(現在の奈良県橿原市)から遷都された平城京の宮殿(地図上の灰色部分)で、当時は土塀に囲まれ政庁舎などが建っていた一画である。
img20091104_1.jpg

上の写真は復元された朱雀門(引用奈良市観光情報センター(奈良市観光協会)http://narashikanko.jp)で地図上の平城宮跡の下部にある。

朱雀門は平城宮(大内裏)の外側を囲う土塀にある12の門のひとつで南側中央の正門にあたり、この門から南に朱雀大路が延びる南北の道であり約4.8qに及ぶ。

この朱雀大路の左右に左京・右京の町が位置し、それらが碁盤の目のような町割で構成されていたのが平城京である。

ちなみに左京というのは天皇がいる平城宮(大内裏)から見て朱雀大路の左手であり、都の東側を指す。当然右京は西側となる。

現在復元されているのは上の朱雀門と大極殿で、大極殿戒壇など一部の建造物については礎石を配置したり植木を刈り込んで柱状に模したりしているが平城宮跡だけでも相当広いことが実感できる。

この後、平城(へいぜい)天皇陵、磐之媛命陵を経てコナベ古墳ウワナベ古墳から不退寺、法華寺、海龍王寺を巡る『佐保・佐紀路』の散策はほぼ1日コースとなるが、古墳時代より奈良時代に至る古学びも良いものである。

以下、『奈良龍大会・親睦交流会 於【法華寺、海龍王寺】〔2〕』へ続く。
Posted at 15:29 | この記事のURL | Clip!!

今年2度目の開花 ・ 月下美人 [2009年11月01日(日)]

あれやこれやと慌しく過ごしていてブログの更新にまで手が回らなかった。

忙しくしている間は案外忙しいとは感じないものである。

忙しい時期を越えて少し時間にゆとりが生じると、「ああ、忙しかったなあ。」と思うものであり、忙しい最中に忙しいと思うのは未だ時間的に余裕があると言うか、そのことに熱中していない、しきれていない状況にあると言える。

聖徳太子は十数人が同時に話すことを聞き分けたと言われるが、これは将に神業と言えるものであって一般人にできることではない。

忙しい状況を表現するのに「猫の手も借りたい」という言葉があるが、これは勿論比喩的表現であって実際に猫の手を借りれば成し遂げられるというものではない。

ともあれ落ち着いて思い返してみると、やっておかねばならなかったことをやっていなかったことに気付いたり、あの時にしておけば良かったなあなんてことが結構あるものだ。

大したことではないがブログの更新もその内のひとつであり、時期がずれてしまえば気の抜けたラムネと同じである。
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写真は我が家の月下美人であるが、今年は8月初めに花を咲かせてくれた。

この月下美人であるが、どういうわけか嵐の前触れを感じ取るのか台風が近付いて来るのに合わせて蕾を膨らませるのである。

8月初めの時は台風8号と9号が発生し、北へ移動するのに合わせて蕾を膨らませたし、写真の花を咲かせた時は9月19に関東地方を北東へ進んだ台風14号に合わせるようにして蕾を膨らませた。
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午後6時頃より捻じれたような蕾を徐々に膨らませ、午後8時から9時頃に両手で抱えるほどの大輪の花を満開状態にさせるのである。

この満開の状態のまま午前0時頃まで持続させ、その後は花を持ち上げるように支えていた赤っぽい色の花茎がダラリと下がり萎んだ花をぶら下げるようにして朝を迎えるのである。

丁度、開花の時間が夕飯時なので、酒肴を口にしながら杯を傾けるのである。

気の抜けたラムネの記事になってしまったが、精一杯咲き、見事な花を見せてくれた月下美人に感謝しつつブログとして掲載しておく。
Posted at 14:02 | この記事のURL | Clip!!

ドリコムブログ譲渡? 区切りとしての御礼 [2009年11月01日(日)]

私が書き込んでいる当ブログサイトがドリコムブログである。

2005年から使わせて頂いているので5年になる。

それ以前にも幾つか無料のサイトを使用させてもらったが、ブログページの構成機能が文字だけで変化に乏しいために『fc2web.com』のページを借りてきた。

このページだとHTMLで変化に富む構成ができるので良かったのだが、多少自分の希望通りにならない点があってもHTMLに悩まされることもなく簡単に操作できる利点から当ドリコムブログサイトに移ってきたのである。

以来5年。 早いものである。

日記帳とまではいかないが、折々の出来事について思いや考えなども交えながら備忘録的に書き綴ってきた。

時折見直してみれば、「あんなことがあったなあ。」「こんなことも。」と、記憶の隅に追いやっていたことが今直面しているかの如くに思い出される。

これまた楽しいことである。

が、このドリコムブログサイトが譲渡されることになったそうな。

譲渡先はライブドアだとか。

タダで利用させてもらってきたのだから文句など言えないが、企業間の譲渡、これは仕方がないだろう。 しかし、これまでと同様・同等のサーヴィスをライブドアより提供頂けると有難いものだと思うし、そうあって欲しいと願いもする。

詳しくは把握していないが、ブログサイトの移行が過去の分も含めて手軽にスムースに行えるならば願ってもないことと思う。

いずれにせよ企業としてサーヴィス頂いたドリコムに対しては心底御礼を申し上げる。

また、我が拙文に目を通して頂いた方達にも一応の区切りとして、ここで御礼を申し上げる。

新しい移動先を設定した時点で移動通知が行えるよう努めるつもりでいるが、今後ともよろしくお付き合いを願いたく思う。
Posted at 12:03 | この記事のURL | Clip!!

徳島・眉山へ登る [2009年10月18日(日)]

ホテルのチェックアウト時刻が11時。 葬儀の開始時刻が午後1時。 ホテルより小松島の式場まで20分程度あれば到着する。

昼食をとるには早過ぎるし、空き時間が長過ぎるので眉山に登ってみることにした。

眉山の山容は前ページでホテルの前から撮影した写真を掲載している。

地理的に言うと、徳島平野は全長194kmに及ぶ四国三郎と呼ばれる吉野川が紀伊水道に注ぎ込む河口に向かって出来た沖積平野なのだが、その吉野川の河口に近いあたりに位置して吉野川の流れを方向付けているのが眉山である。

眉山は標高280m程度の丘陵がほぼ東西に連なっているのだが、北側に吉野川と徳島平野、それに眉山の東側にも吉野川の沖積地は広がり、更に眉山の南側を流れる園瀬川や勝浦川の沖積地が広がっているため、眉山の北側、東側、南側を囲むように徳島市街が広がっている。
img20091018_2.jpg

写真は眉山の展望台から東向きに撮影したもので、左手の川が吉野川(四国三郎)。 中央の川が新町川で徳島市街が広がっている。

左のこんもりした丘が城山の徳島城跡。

左手には淡路島、右手遠方には紀伊半島も見晴らせる状況から、眉山にはテレビ塔が設置されていたり三角測量の基準点である1等三角点が据えられている。

下は、その1等三角点である花崗岩の標石。
img20091018.jpg

国土地理院の表示板には下のように記してあった。

   一等三角点「眉山」
   北緯   34゜ 4′ 1″
   東経  134゜ 32′16″
   標高  277m


下の写真は仏舎利塔で、第2次世界大戦での戦没者慰霊のために建てられたもの。
img20091018_1.jpg

眉山にはロープウェイでも登ることが出来るのだが、私達は自動車で頂上下の駐車場まで上がった。

この駐車場から展望台までの一帯が公園化されているのだが、刈り込まれた潅木群のあちこちに『マムシに注意』の看板が立てられているのには弱ってしまった。

青大将、シマヘビの類いでも嫌いなのにマムシやハブなど論外。

危害を加える輩は徹底して捕獲、抹殺・駆除してもらいたいものだ。共生できるものなら良いのだが・・・

下は望遠で撮影したもの。
img20091018_3.jpg

下部に城山(徳島城跡)、その上部に吉野川。 左の橋が吉野川大橋で右側に建設中の橋が四国横断自動車道のもの。

左の島影が淡路島で右側が沼島。 その間で遠く霞んで見えるのが和歌山県加太の田倉崎あたりだろうか。

下は吉野川と徳島平野。
img20091018_4.jpg

鳴門市、鳴門海峡方向の写真であり、写真中央に白い大鳴門橋が見える。遠方の山並みは淡路島である。

下は新町川。
img20091018_5.jpg

中央辺りの茶色の大きい建物が徳島県庁舎で同色の直ぐ右側の建物が徳島県警本部庁舎である。

私たちが泊まった徳島グランヴィリオホテルは県庁舎の直ぐ後ろにある白色の建物である。

Posted at 16:15 | この記事のURL | Clip!!

徳島グランヴィリオホテル [2009年10月18日(日)]

徳島でのホテルは徳島グランヴィリオホテルと言い、以前は徳島プリンスホテルであったらしい。

急に徳島へ向かうこととなり、ホテルに予約を入れたのも宿泊当日の午後3時を過ぎていたと思う。

以前なら交通公社に電話を入れるか現地の旅館に飛び込みで交渉するかであったものが、インターネットの普及で居ながらにして旅行代理店の業務を自分で行えるようになった。

インターネットで某旅行会社のページを開き、目的地に近く、ツインの空き部屋、そして料金の3つの条件に絞って検索したところ、『朝食付限定10室プラン』という“商品”が目に入ったのである。

この料金が激安

目的地は小松島なのだが小松島のホテルは掲載されていなくて徳島市が殆どであった。 しかし徳島・小松島間の距離はしれているので上記の徳島グランヴィリオホテルにしたのである。
img20091018_3.jpg
 地図は、徳島市・徳島市観光協会『とくしま観光ガイド』より

このホテルはJR徳島駅より南東へ千数百メートルの官庁街に位置し、ヨットハーバーのある新町川に面して建っている。

徳島県庁、議会、県警本部などの建物に加え国の合同庁舎、それに県婦人会館や職員会館などが建ち並ぶ一角にあり、比較的静かな環境と言える地域である。

ホテルは激安と言っても安かろう悪かろうでは困るのだが、立地条件として問題はない。

ホテルを評価する場合、交通便や環境だけでは勿論無い。

ホテルに入る前の敷地や建物などの施設、ホテルの建物に入ってからのレセプションやルームメーキングなどのスタッフの言動一切、パブリック、プライベートに関わらず施設・設備の一切、食事やアメニティグッズの内容や質、そしてチェックアウトしてホテルの建物、敷地を出るまでのありとあらゆるもの全てが評価の対象になると私は考えている。

今回の部屋はリバーサイドで比較的高層階であったので景観的アメニティは満足できるものであった。
img20091018_2.jpg

上のパノラマ写真で左のこんもりした緑の丘が城山であり蜂須賀26万石の徳島城跡である。 遠くには淡路島も見えていたのだが・・・ 

ツインの部屋としてはベッド以外にテーブルと椅子2脚を置いていた広さだし、バスタブも大きくて部屋の状況も良であった。

部屋備え付けの冷蔵庫に見にバーのセットはされていなかったが、写真手前のレストラン棟(緑青色の屋根)の1階にコンビニエンスストアのローソンが広い店舗を開いているので問題はない。 レストラン棟へはホテル2階に公道を跨ぐ連絡通路が設けられている。

ついでだが、このローソンでは徳島県の数多くの土産品も扱っているので便利である。

朝食はレストラン棟2階の広く明るい部屋でのヴァイキング形式となるが、特段の好みを言わない限り和洋食ともに品数は充分であろう。

時間は7時〜9時までで、係留されている多くのヨットを眺めながらの食事は楽しいし、チェックアウトタイムが11時なのでヨットハーバーの散歩なども楽しめる。
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写真は新町川の対岸からホテルとレストラン棟を見たもので、右手方向に徳島県議会庁舎と県庁舎が並んで建っている。

以上ホテルの評価について幾つかを書いてみたが、最後に料金の安さも書いておこう。

今回のこのホテルのプランでの1人分の料金を比較して見ると、私が博多で利用しているシャワーしか出来ないような小さいバスタブで狭い部屋の冷泉閣川端ホテルの素泊まり1泊料金と同額であり、広島での常宿としていたリーガロイヤルホテル素泊まり1泊分の料金で、このホテルならば4泊もできるということになる。

徳島という立地を考慮しても尚且つ安く、他の評価項目も総合して『朝食付限定10室プラン』というのは激安商品として推奨できるものと私は考える。
img20091018_1.jpg

ホテルの前へ出ると、新町川に係留されているヨットの群れと徳島の町並み、そしてその後ろには緑濃き眉山を眺めることができるのである。

左側の茶色の建物は徳島県庁舎。
Posted at 11:57 | この記事のURL | Clip!!
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