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博多・禅寺・・・秋色 [2009年12月11日(金)]

毎年の如く年末に博多を訪れていたのだが、今年は止めておこうと思いを決めた矢先、友人が博多に立ち寄るので案内してくれないかとの声掛かりがあった。

うーーん。

3,4日の予定だがと言う。

行かないと決めたものの、博多と聞いてワクワクし始めた気持ちを鎮めることもできずに承諾の返事をしてしまった。

弁解するようだが、この時点では快諾ではなかったのである。

快諾しなかったのには幾つかの理由があるのだが、そのひとつは、案内を依頼されて受諾したならば当然のこと友人が博多に到着してから去って行くまでの期間、その案内に責任を持たねばならない。

四六時中と言わないまでも、ホテルから案内を始めてホテルにお送りするまでの間は共に行動するのが原則である。

しかし、友人の興味・関心がどのようなものにあるのか不明である上、博多人でない私が博多を案内するだけの素地素養があるのかどうか、これらのことも快諾しなかった理由である。

更には、よく博多へ同行する者たちへの気持ちも・・・

ともあれ九州場所千秋楽の朝早く博多駅で友人を迎えるように行動を開始した。

当日定刻着の『のぞみ』で来博した友人を伴って駅に近い寺町を歩くことから案内を開始した。

下は9月にも紹介した承天寺である。
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上の写真を更にアップしてみた。
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11月29日。 見事な秋である。

承天寺の方丈と洗濤庭である。
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静寂な禅寺の秋の朝。

・・・・・・



こうした場面に多くの言葉は要らない。



さて、時間が迫ってきた。

今夜はバンコクのホテル。

家内とタイの遺跡とお寺を巡ってくる。

最近、どういうわけかお寺詣でが多くなったようだ。

このページも10〜12日間程度お休み。
Posted at 11:44 | この記事のURL | Clip!!

グッドタイミングの新聞記事(朝日新聞、11/22) [2009年11月26日(木)]

先に、2009年11月18日(水)付けで『記念切手シート【龍谷大学創立370周年記念】』について書いた。

この切手シートの中に『混一疆理歴代国都之図』という地図を印刷した切手が入っていることを紹介したが、この地図について朝日新聞の11月22日付けの朝刊第一面に関連記事が出ていた。
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朝日新聞大阪本社版なので全国版紙面に割り付けたものであろうから近畿地方以外では別の記事が組まれていたものと思う。

が、あまりのタイミングの良さに携帯電話のカメラで撮影してしまった。

『混一疆理歴代国都之図』と切手は書かれていたが、混一とはひとまとめにするという意味であるし、疆理の疆(キョウ)は境という意味であるから境目或いは区分という意味になるかもしれない。

つまり、中国のこれまでの首都であった都市をこの1枚の地図に時代に関わりなく記した図面であるという意味なのであろう。
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1402年、李王朝の太宗2年に朝鮮で書かれたものだけに朝鮮と中国(明)の海岸線はよく描かれている。

新聞記事では日本やアフリカが小さく描かれていると書かれているが、左端の図がアフリカであるとは思わなかった。

ひょっとすればとの思いはあったもののインドかもとも思っていた。

図面には歴代の都市の名前が書かれていたらしいが、切手でも新聞記事でも都市名は読み取れなかった。

事実劣化しており、それをデジタルカメラなどで解析復元したと言う。

もうひとつ切手を見て気になっていたことであるが、地図上で九州を上にして本州・東北と南北に描かれている点である。

この新聞記事では、『この古地図は「魏志倭人伝」の行程通りに南へ進むと大和に至るとして「邪馬台国畿内説」の論拠の一つとされたこともある』と書かれているように、邪馬台国の時代とこの地図作成の時代には大きいズレがあるものの、古代人の地理感覚を推測する上で大いに気になる史料と言える。

朝日の記者とも大学の関係者とも話をしたわけではないが、タイミングという意味ではピッタリであった。

『打てば響く』とか『啐啄同時』といった言葉がある。

大自然における状況や理(ことわり)を比喩として用いられている言葉は存外多いものである。

前者は太鼓を叩けば胴内部の空気が振動して裏の皮に振動が伝わる物理面の例えであるし、後者は卵の中のヒナ鳥が殻をつつく音の『啐(そつ)』と、母鳥が殻の外側を噛み破る音の『啄(たく)』がタイミング良く同時に行われる生物界の状況を例えとする。

いずれもタイミングが合う場合に用いるが、後者の場合は、この機会を逃したら他には得難い絶好のタイミングという場合を指し、かなり限定的に用いるが、卵の殻の外と内では互いに見えない状況にあって絶好の機を母鳥とヒナ鳥が知る。

本能と言ってしまえばそれで終わりだが、何故?と更に問えば、やがて生物学の誰かが科学としての証明を行うであろう。

科学の発展が自然界における不思議や恐れを減少させ人間生活の向上に寄与してきたのだから、それはそれで大事なことだとは思う。

しかし、同時に自然界に対する人間のおごりや高ぶりが増長してきたような気もするのだが・・・

これ以上は表題とズレるので止めておこう。
Posted at 10:12 | この記事のURL | Clip!!

孫?の成長 [2009年11月21日(土)]

私は良いのだが誤解を与えてはいけないので先に断っておこう。

これまで何度か書いてきたように、私には息子や娘扱いしている者が沢山いる。

『扱い』と書いたように『実の』ということではなく、つまり法的な意味での実子でも養子でもない。 私が勝手に思い込んでいるだけのことと了解してもらえば良い。

そうした息子や娘が結婚して子どもを授かったならば当然それらの子ども達は私の孫(扱い)となる。

息子達が、或いは娘達がそれぞれに良き伴侶を見つけてくれば息子・娘の数は更に増える。 人間世界のことであるから幾何級数的に増えはしないものの孫の人数も微増している。

下の写真はKちゃん。
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昨春結婚したY君Hさんの愛娘で、Kちゃんは4月3日に誕生した。

無事誕生の一報は「15時ちょうどに3462gの女の子でした」というものであり、それからほぼ1ヶ月後に我が家へ来てくれた時の写真である。

私が長く風邪気味であったため、この時が初の対面。 父親・Y君の腕に抱かれ安心して眠っていた。

その後、私たちが北欧旅行から帰ってきたのが6月中旬であったが、帰国してKちゃんを入院させたことを知った。
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「ええっ?」という驚きが第一声。 「うーん」、後は何とも言えず。

誕生後わずか1ヶ月少しで・・・

まだまだ授乳期の始め、母親・Hさんも入院状態に。

Kちゃんが入院することになったのは強い引きつけが何度かあったことで医師が判断したようだが、急激に発育を開始し始めた乳幼児に対する診断は難しいものである。
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大人の場合は自覚症状について医師に口上出来るし、医師の方でも問診、触診だけで病について凡その推量をする事が可能である。

血液、尿、便などのほか、機器による検査も大人の場合は比較的容易であるが乳幼児の場合は検査を行うにも難しい面がある。 また、検査結果に基づいた診断も決して簡単に断定できるようなものでもない。

他の学問分野でもそうであるが、医学分野でも専門分野が細かく分かれる。

内科、外科などといった分野でも更に細かく分かれ、医師も循環器系を専門とする内科医もいれば消化器系を専門とする内科医もいる。

科学の進歩は目覚しく、医学生理学などの分野でも分子レベルの研究が広がり、そのことによって治療可能な症例の分野も数も増え、これはこれで歓迎されることである。

が、研究と臨床が細分化専門化することは特定の病気治療を求める患者にとってはプラスである反面、医師・病院が特定され、遠地で患者が集中し、そのために様々な不都合が生じることもある。
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いずれの親にとっても子どもは宝物であり、子どもの健やかな成長を阻害する要因があればそれを除去しようとするのは当然であり、子どもに病気が発見されればそれに対して現代医学における最高最良の治療を行わせようとするのも至極当然のことである。

Y君とHさんは愛娘Kちゃんの症状と治療法について自分たちでも調べ、小児科の主治医と相談の上、他県の病院で検査と治療を受けるため転院した。

上の写真も下の2枚も転院先の病院での写真である。

家族以外の病室への入室が制限されているため、Y君が時々Kちゃんの成長の様子を写真で知らせてくれるのである。
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転院先の病院でも当然HさんはKちゃんに付きっ切りであり、仕事を辞めるわけにはいかないY君は週末に泊りがけで病院を訪れるという生活を余儀なくされているのである。

包丁を持って調理などしたことがないという、あまり名誉でもない逸話を持つY君だが、そのY君がKちゃんにはメロメロで毎日午後7時には家に帰ってKちゃんを風呂に入れていた。

そんなことが出来るのかと話を聞いた時には誰もが信じられない思いであったが、最初の入院先でもそれは続けていたようである。

下は初めて離乳食の野菜スープを口にした時のもの。
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しかし自宅から車で30分以内で訪れることのできる病院ならばこそのことで、新幹線を利用したとしても3時間もかかる病院では仕事を終えてからその日の内に往復するなどということは出来ない。

毎日でもKちゃんと接していたいという気持ちではいるのだろうけど、土曜日の仕事を終えて病院へ行き、日曜日には明くる日の仕事のために自宅へ帰ってきている。

病院はホテルではないし、2人部屋の病室ゆえKちゃんと他の子どもがいる部屋では横になることも出来ないであろう。

窮屈な病院のソファで仮眠をして帰ってくるのであろうか。 1週間に一度とは言え新幹線の往復では経済的にも厳しかろう。 往復を自動車移動にしているそうだが、帰路、日曜日の道路渋滞はひどくて5時間もかかるらしい。

一方、病院で付きっ切りになっているHさんも外へ出ることが出来ず、Kちゃんへの思いも含めて精神的には大変な心労を重ねていることと思う。

しかし、子どもを産み育てるということは端から大変なことなのであり、親は子どもが自立するまで、その養育についての責任を免れることはない。

その過程において苦労や苦難は大きさや時期こそ違え、いずれの親子にもあるもので乗り越えていかねばならないものである。

子育ては広義に社会的な観点に立てば「社会の子」「国家の子」として位置づけ、その育成にあたって社会、国家が担うべき役割も大きいものがある。が、第一次的には如何なる困難があろうとも親がその責任を担うのは当然のことであると私は考えている。

そうした意味において現象的には親失格、もっと厳しく言えば親になる資格の無い者すらいると思えることが現代社会に見られるが、これはとても残念で悲しいことである。

ともあれ現在Kちゃんの状態は安定してきているようなので嬉しく思っている。

一日も早くY君の家族に平穏な日々が訪れることを願って止まない。

Posted at 05:36 | この記事のURL | Clip!!

記念切手シート【龍谷大学創立370周年記念】 [2009年11月18日(水)]

龍谷大学が創立370周年を迎えたことについては以前にも書いたが、それを記念してオリジナル切手シートが発売された。

旧郵政省が発行した特殊記念切手の中で、大学創立に関する最初の切手は1952年(昭和27年)に発行された『東京大学創立75年』であろう。 だから東京大学は今年で創立132年になる。

私が切手蒐集を始めた頃のもので多分1枚はストックブックに入っていると思うが、従兄弟や甥っ子に頼まれるままに随分あげてしまったので今はどうか・・・。
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次に発行されたのは1958年(昭和33年)の『慶応義塾創立100年』であり、昨年、2008年(平成20年)には『慶応義塾創立150年』の切手が発行されているが、勿論昨年発行分は日本郵政グループの郵便事業株式会社の発行である。


私が知る限り郵政(郵便)事業として発行された大学創立に関する切手はこれら以外には無い。

なぜ無いのか、75年にどのような意味があるのか、慶応義塾のみが何故100年と150年の2度の発行なのか、発行の趣意書に必然的理由は無い。

ツマラン連中のことはさておき印刷原料資材の品質や技術の向上によって切手の美術的価値は大きく進歩した。


上の写真が龍谷大学が創立370周年オリジナル切手シートの表紙である。

比較的最近で私が知っている創立記念オリジナル切手の発行は、
2001年  日本女子大学 創立 100周年
2007年  早稲田大学   創立 125周年
2008年  慶応義塾     創立 150周年
2009年  専修大学     創立 130周年
2009年  龍谷大学     創立 370周年
2010年  津田塾大学   創立 110周年
2011年  小樽商科大学 創立 100周年
これらの大学で行われ(る)た。

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いずれも各大学の歴史や特徴を切手の絵に表したもので切手蒐集を趣味とする者にとっては興味を持てるデザインとなっている。

龍谷大学の切手シートは大学が所蔵する文化財の一部を抽出して描いたものであるが、美術品切手としての価値もある。

1シートには80円切手として10枚がデザインされているが、いずれも『龍谷ミュージアム』に展示されるもので国宝、重要文化財の類いである。

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絵巻については以前にも書いたが、中国の画巻の形態を取り入れて日本でも8〜9世紀に描かれ始めたとされ、12世紀には卓抜した作品が描かれた。

源氏物語絵巻、信貴山縁起絵巻、伴大納言絵巻、鳥獣戯画などの傑作がそれである。

この切手の絵は『源氏物語絵巻』二種のうち狩野探信が江戸時代後期に描いたものであるが、細かい筆線での人物や場面描写が見事である。


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左の書籍は『類聚古集』。全16冊で国宝である。

万葉集の歌を歌体や春夏秋冬、天地、山水など題材によって分類。藤原敦隆が編集しなおした初めての書物であり、万葉仮名の歌の後に平仮名で読み方が書かれた現存する『類聚古集』の写本として唯一のものである。



この『類聚古集』には伏見天皇の花押が記されている。




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この地図は朝鮮使節として明(中国)に出向いた金士衡と李茂が李薈に描かせたもので李朝太宗2年に作成したものだという。

朝鮮王朝における太宗王の2年ということは1402年であり、日本では室町幕府の足利義満の晩年の時代である。

明(中国)と朝鮮が大きく描かれ、日本が右下に小さく描かれている。

日本最古の地図は僧・行基が描いた『行基図』であるとされているが、ここに描かれている日本の図は『行基図』によるものと解されている。

江戸時代後期に伊能忠敬の実測によって作られた『大日本沿海輿地全図』が作成されるまでは上の日本地図のような『行基図』を用いていたということである。

ちなみに『行基図』の原図は現存していないという。

下は明治19年に普通教校(龍谷大学の前身)の教授や学生を中心に組織された『反省会』の機関誌『反省会雑誌』(明治20年発行)。
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社会改良運動の機関誌として誕生した『反省会雑誌』は明治32年に『中央公論』と改題し、わが国で最初の総合雑誌へと発展した。

文学雑誌としては早稲田文学が明治24年に創刊している。











下はベゼクリク第4号窟寺の壁画、誓願図(デジタル復元)。
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『龍谷ミュージアム』館内にベゼクリク石窟寺院の壁画回廊を復元するとのことである。

1902年(明治35)の第1次から第3次(1914年)まで3回にわたって仏教伝播の経路を調査するため東アジアの仏跡を中心にシルクロードに赴いた大谷探検隊(浄土真宗本願寺派22代門主・大谷光瑞が組織)が発見、発掘した膨大な収集品は西域文化を研究する上での貴重な資料として中国・旅順博物館、韓国国立中央博物館、東京国立博物館、そして龍谷大学などで分蔵・管理し研究に寄与している。

シルクロードは古代インドに始まった仏教伝播の北部ルートであるが、イスラム勢力(教)が浸透することによって仏教遺跡が破壊され多くの経典、仏像、仏具なども散逸した。

写真のベゼクリク石窟寺院は中国・新疆ウィグル自治区の天山南路の東北、トルファンにあるものだが、他の遺跡同様に破壊されており壁画の断片も世界中に散逸していたという。

この復元に龍谷大学とNHKが共同してデジタル復元に取り組んだらしいが、その制作過程を紹介しているページがあったのでリンクさせることにする。
       リンクするには、『この行をクリック』する。

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これは『奈良絵本竹取物語』で「かぐや姫」が天に戻る場面。

奈良絵本は室町時代末期から江戸時代中期にかけて作られたもので、奈良絵を挿絵にした冊子である。

現存する奈良絵本の竹取物語は極めて少なく、本書も貴重なものである。

貴重と言えば随分以前になるが龍谷大学大宮図書館所蔵の『平家物語(覚一本)』を見せてもらったことがあった。

岩波書店の日本古典文学体系「平家物語」の底本になった『覚一本』と呼ばれる古写本12冊であるが、これは読みづらく私には岩波本の方が良い。

この大宮図書館所蔵の古典書は歴代の本願寺門主の蔵書『写字台文庫』が基になっているので、日本の古書籍はもとより現在では中国にも残っていない貴重な明・清時代の書籍も多く、江戸幕府の紅葉山文庫(現在は内閣文庫)に次ぐコレクションと評されている。

貴重な書画骨董品を金持ちと呼ばれる世の好事家は個人で抱え、大学や会社などでも所蔵していても公開していないものが沢山ある。

イギリスやドイツなど、武力をもって侵略した国の貴重な物を強奪してきたような歴史もあるが、後にそれらを管理し一般に公開してきたことは評価できる。

貴重な遺跡、遺物、書画骨董品などは全人類の宝物であって、金持ちであるという理由をもって個人所有するというのは承服も賛同もできない。

松方コレクションは公開され、大原は倉敷に、石橋はブリジストン、鳥居はサントリーと広く一般に供しているものもある。(例として)

とりわけ社会に対して責任を有し密接なる関係によって成り立つ大学や企業は率先してそれらを常時公開すべきである。

ともあれ龍谷大学創立370周年記念の節目の事業のひとつで僅かとは言え、貴重なものを例え切手の絵柄であるとしても公開したことは評価できる。

こんなプレゼントなら幾らでも頂きたいものである。ぶっははははは
Posted at 10:57 | この記事のURL | Clip!!

娘の挙式を言祝ぐ [2009年11月17日(火)]

11月14日、前夜からの冷たい雨が降る朝を迎えた。

娘の結婚式なのに晴れてくれればいいのに・・・

そんな願いが通じたのか挙式前には清々しい秋空となり、式場であるホテル内も輝かしい光で満ち溢れた。

娘、娘って、いったい何人の娘がいるのかって不思議に思われるかもしれない。 いや、娘だけではない、息子も沢山いるのだが・・・。
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それの説明はさておき、この娘Mちゃんの結婚について、彼女の夫となったM君と付き合い始めた頃よりMちゃんと会うたび進展具合を聞いてきたのだが、何としても幸せになってもらいたいと私も家内も願い続けてきた。

彼女が結婚の意志をほぼ固めたのは昨年末だったか今年の初めだったか、それが決まって報告してくれたのが夏初めのことであった。
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とても優しい人だと。

Mちゃんが新しい人生を歩むことを決意してくれたことだけで充分に私たちも幸せであった。

指輪の交換。そして結婚宣言へ。

式次第通り粛々と進むセレモニーだが、進むほどにMちゃんが結婚するのだと実感がわくと同時に目頭が熱くなって二人の姿がぼやけて見えなくなってしまった。

式典が終わるとホテル側の趣向らしいがエントランスフロアでフラワーシャワーを浴びて新郎新婦が招待客が居並ぶ中を進む。

挙式場から披露宴の席へ移動し、花婿花嫁の入場を待って祝いの宴が始まる。

ウェディング・ケーキへの入刀。
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硬かった二人の表情にも和みが出てきた。

キャンドル・サーヴィスは花火が弾け、Mちゃんの素敵な笑顔がキャンドルの明かりに映える。
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宴を終えて新婚ほやほやのカップルと共に。
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幸せになりや、Mちゃん。

M君、Mちゃんを頼むで。 きっと、きっとやで。

最も気になり心配していた娘が新しい道を歩み始めた。

嬉しくて、ただただ嬉しくて言う言葉も無い。

肩の荷が下りるという言葉があるが、今日の日がそれであった。

若い人たちから2次会に誘われていたけれど、真っ直ぐ我が家へ帰って横になるなり朝までぐっすり眠り込んでしまった。

幸せである。 感謝するのみ。
Posted at 11:33 | この記事のURL | Clip!!

祗園『さか季』でイッパイ [2009年11月16日(月)]

10月末から11月初めは各地の多くの大学で大学祭が催される。

大学祭は春秋の実施と二分されるが秋に実施されるのが圧倒的に多い。

講演会、展示(展覧)会、演奏(演劇)会などに加え各種の模擬店などが開設され、学生たちで構成する大学祭実行委員会の企画で催される。
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今年もどのようなものになっているのかと興味を持って2校を訪れてきた。ご祝儀を届けることが訪問目的の半分なのだが。

夏の研究会以来久し振りに京阪電車に乗ったのだが、車体に機関車トーマスの絵が色とりどりに描かれていたのでパチリ。

私が子どもの頃、国鉄の赤茶けた錆び色の電車体にペンキでストライキの文字が書かれていたのを思い出すが、機関車トーマスは書きなぐりの落書きではない。

近鉄も京都や奈良の絵を描いたり、某私大の宣伝を入れた車両を走らせている。

地方行政での財政収入増加を図って公共施設の命名権を売買するのと発想は同じことなのかもしれない。
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通常、『さか季』は午後6時に暖簾を掛けるのだが私の用事が早く終わったので5時に店を開けてもらった。

随分寒い日であったので熱い湯割りの焼酎でもと思っていたのだが、『さか季』の料理は日本酒がよく合うので辛口の熱燗にしてもらった。

写真の小鉢はヨコワの和え物なのだが、ヨコワをミョウガや青ジソなどと共にオリーブオイル(他にも混じっている)に漬け込む、つまりフランス料理で言うところのマリネである。

見かけは日本料理で味わいも日本料理と言って良いが、どこか日本料理の枠外にあるというような・・・とりわけヨコワの食感が違うのである。が、全体としてはとてもよくまとまった一品であった。
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これは蒸したズワイガニの身に白醤油をもとにしたダシをかけたものだが、色合い味ともにまずまずであった。

『さか季』にはちょくちょく寄ってはみたいのだが、京都で夜になるまでいるということが少ないので訪れる機会は少ない。

下は天然ブリの刺身である。

脂の乗りという点で言えば未だ少しといったところだが、私にはコレでも充分すぎるくらいである。
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年を取ると好みが変わると聞かされてきたが、思い返せば50の声を聞くようになった頃より変わってきたのかなと思う。

日本料理で言うところの煮しめはあまり好きではなかったが、40半ばの頃から食べたいと思うようになり、以来とりわけ高野豆腐、ひじき、野菜の煮物は好んで食べるようになってきた。和え物では卯の花(おから)が好物である。

デパ地下など惣菜専門の店が商品として出しているのは甘さが強くて好きではないが家内のはウマイ。(ゴマスリは3分の1。ホンマのこと)

それに私はマグロが好きで、以前ならカマであれ腹であれ大トロも喜んで食べていたが、今は天身(赤身)が主で中トロを少しという程度。

牛肉は今でも好物ではあるが食べる量は減ってしまった。
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オーストラリアにしばらく滞在していた頃は4〜500グラムのステーキが食べられるので大いに喜んでいたものだった。

「ステーキと言えるのはこれくらいの厚さのこっちゃ」

日本でステーキと言えば160〜180グラム。

これは、ちゃうちゃう。

後の予定があったので、キノコたっぷりのフォアグラの蒸し物を作ってもらった。

まだまだ冷えるとは言えない時期ではあるが温かいものを頂いて花見小路へ。

また来まっさ、『さか季』はん。
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奈良龍大会・親睦交流会 於 【法華寺、海龍王寺】 〔6〕 [2009年11月10日(火)]

海龍王寺の歴史も古い。

奈良県史(奈良県史編集委員会 平成3年 名著出版)によれば「寺伝による天平3年(731)光明皇后の本願で造立された寺というが、白鳳時代の古瓦を出土しているので、平城京建設以前にもなんらかの施設があったとみられる。」としている。

白鳳時代とは日本文化(美術史)の時代区分で用いるが、飛鳥時代と天平時代の間、つまり7世紀後半から8世紀初め、とりわけ672年の壬申の乱の後の天武朝、持統朝の頃の仏教美術の興隆期を示すことが多い。
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上は海龍王寺の東側の南北に通る道路に面した表門で、下は拡大したものである。

『続日本紀』天平10年3月28日(738年)に「施隅院食封一百戸」とあり、天平神護2年(766年)には「奉請隅寺毘沙門像所現舎利於法華寺」と記されている。それが、『七大寺巡礼私記』保延6年(1140年)に海龍王寺の寺号が出てくることから海龍王寺が建てられて後の初期に於いては皇后宮(法華寺)の隅寺とか隅院という意味合いのものでなかったろうかと前掲の奈良県史では記している。
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隅かどうかは別にして写真のように飾りっ気のない風情は大和のお寺に共通するものであり、古都奈良と京都の違いを私は高校生の頃より感じてきたが、それぞれの時代の文化の違いが様々な建造物の構造や形、色彩などに表れていることがこれらの写真でも感じられるところである。
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表門を入ったところには築地塀があり、瓦を敷いて壁土を積み重ねただけの質朴さは小さかった頃に受けた大和の寺のイメージそのままである。

高校生の頃までの記憶では大きいお寺を除いて壁土を積んだ塀も大きく壊れていて自由に出入り出来ていたようにも思う。

植え込みの木に挟まれた狭い小道のような参道を歩むと小さな東門に至る。
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通常拝観の場合は東門を入ったところで拝観料を奉納するが、今回は特別に通らせていただいた。多謝。

海龍王寺の開基は玄ム。

玄ムは養老元年(717年)に学問僧として唐に渡り法相を学び、玄宗皇帝に才能を認められて紫の袈裟を授けられ帰国している。その後天平7年(735年)にも唐に渡り一切経5000巻を得て吉備真備らと帰国した。

海龍王寺の境内をパノラマにしてみたが左右の写真の条件が同じではないので少々見づらいものになってしまった。
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向って右側が本堂で左手が西金堂である。

海龍王寺は、平安時代初期には隆盛をほこっていた興福寺の管理下にあって住持も興福寺の学僧が任じられていたらしいが、1180年(治承4年)の平重衡による南都焼討ちが行われた頃には寺の衰退もひどかったようである。

ちなみに法華寺の復興に精魂傾けたのは西大寺中興の祖と言われている僧・叡尊(興正菩薩)であると書いてきたが、彼はこの海龍王寺に住み、この寺でも真言律宗を説き広めてきている。
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写真上下は木造十一面観音立像で室町時代の作品で重要文化財である。

※ 上下の写真はお寺で頒けて頂いた図を複写したものである
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優しく落ち着いた表情の観音さんであり、静寂なお寺によく調和している。

本寺には鎌倉時代中期の(伝)運慶の作による木造文殊菩薩立像も安置されているがこれも重要文化財である。

下は西金堂(重要文化財)の内部に置かれている五重小塔で奈良時代に制作されたものであり国宝に指定されている。
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高さは約4.5メートルあり、木製二重の壇上にあって建築様式上は薬師寺東塔に似ている。

五重小塔を納める西金堂は奈良時代の建築であるが鎌倉時代に大改修が行われており、一部にの用材に天平時代のものが含まれている。

下は経蔵で1288年(正応元年)、僧・叡尊によって建立されたもので国の重要文化財の指定を受けている。
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今回は不退寺(不退転法輪寺)へは回らなかったが、809年(大同4年)に平城天皇が平安京から平城京に帰った時に住んだ所で「萱の御所」とも呼ばれた不退寺にも藤原時代の作品で重要文化財、木造・聖観音立像がある。

佐保路・佐紀路を巡るなら、法華寺、海龍王寺、不退寺の三観音を巡るコースを組まれることを勧める。

春秋2回の本尊特別開扉期日が設定されているが、法華寺の庭園や慈光院公開と併せて拝観されるならば10月25日から11月10日の間に巡られると良い。この時期は正倉院展の開催期日とも重なるので好都合である。
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奈良龍大会・親睦交流会 於 【法華寺、海龍王寺】 〔5〕 [2009年11月09日(月)]

ここまで法華寺について書いてきたが、本来冒頭に掲げるべきものであったかもしれないご本尊を最後にしてしまった。

別に意図して配置したわけではない。

強いて言えば仏像は偶像であり、私にとっては仏教美術としての価値を持つものであって信仰の対象ではないということである。

キリスト教におけるイコンも同じであり、仮に仏像やイコンその物を信仰対象にしている人たちがいたとしても、その人たちの信仰を否定するものではないということを断っておく。

下の写真は法華寺の本尊・十一面観音立像である。
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※ 本堂内は撮影禁止のため、上下2枚の写真は寺で売られていたカードを複写したものである

平安時代初期の作品で木造素地で国宝に指定されている。

腕と体全体の長さのバランスに「おや?」と思ったのだが、穏やかで優しい表情は衆生救済の大慈大悲の本願を内に秘めていると思えるものである。
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観音様(観世音菩薩)は阿弥陀如来の脇侍であり、衆生の求めに応じて様々な姿に変えられると言われている。

三十三観音はよく聞くが、11の顔を見せて頂いているということだろうか。法華寺の「拝観のしおり」では光明皇后の姿として崇めているということであるが・・・

本尊・十一面観音立像は、本堂・桃山様式の須弥壇上に安置されており春秋に厨子が公開されるが、最後に期日を紹介することにする。

下は国史跡名勝の庭園である。
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本堂の左手(西側)に御所の庭園を客殿とともに移築したと伝えられていることから『仙洞うつし』と呼ばれる江戸初期の庭園がある。

写真の池を中心に500坪の広さを持つ庭園は木々の緑と様々な大きさの石や白砂で構成され、奥行きの感じられる庭となっている。

写真右手は本堂の甍、左手には切妻造の客殿と入母屋造の上の御方の屋根が見える。

池を巡る小道を歩いていると木々の茂みの向こう、築地塀の際に宝篋印塔を発見した。
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宝篋印塔については大分県国東半島を訪れた折のページにも紹介しているが、墓碑であったり供養碑であったりするが、この宝篋印塔については制作年代も分からなかった。

寺男が歴代の門跡さんのお墓だと言っていたが実際のところは不明である。

その寺男が教えてくれたのが下の写真。
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黄色や黄緑色の大きい花梨の実が幾つもぶら下がっていたのである。

花梨はマメ科の木で印度紫檀とも言われベトナム、ビルマ、タイ北部に多く産出し建築材として使用されている高木である。

実(み)は以前に見たことがあるのだが、実際に木に実っている状態を見たことがなく、今回初めて目にすることができ大感激であった。

60数年にして初めて・・・世界中にはまだまだ経験していない事が沢山沢山ある。これからも見聞を広めることができるように願うばかりである。

下の赤い実は多分クロガネモチであろう。

寺男が厳しく注意。
「ヤシの実が落ちるようにドスンと花梨の実が落ちるので木の下に行かないで!」

怖い怖い。

下は拝観入口(東門)の直ぐ横手にある横笛堂。
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横笛は『平家物語巻十「横笛」』のことである。

「高野に年ごろ知りたまへる聖あり。三条の斉藤左衛門大夫茂頼が子に、斉藤滝口時頼と云ひし者也。もとは小松殿の侍也。十三の年、本所へ参りたりけるが、建礼門院の雑仕横笛といふおんなあり。滝口是を最愛す。」

舞台は京都。斉藤茂頼の子である滝口時頼(後の滝口入道)が平安京の内裏の警護の侍に任ぜられたが、建礼門院(平清盛の次女で高倉天皇の皇后、壇ノ浦の戦で安徳天皇を抱いて入水、後に大原寂光院に住む)の雑役をしていた下級女官である横笛と恋仲となった。

しかし、それを伝え聞いた父親が、身分の低い者を思い慕うとはと強く注意したところ、不老長寿の仙人と言われた人であっても今はいないし、老いた者から順に世を去るという決まりもない、人生というものは短いものであり好きでもないものと結婚してもつまらない、真に愛する者と共にありたいと望めば親の意見に逆らうことになってしまうと、

「十九のとし、もとゞりきッて、嵯峨の往生院に」て仏門に入ってしまった。

これを伝え聞いた横笛は、私を見捨てるのはともかく、なぜ言ってはくれなかったのか、あなたの意志が強いことは分かっているが会いたいものだと往生院を尋ねるが、滝口入道がお経を唱える声を耳にするも他の僧侶から尋ねる者はいないと断られ、情けなく恨めしく思いつつ横笛は帰って行った。

滝口入道は出家の意志を曲げまいと高野山・清浄心院に向かい、「そるまでは うらみしかども あずさ弓 まことの道に いるぞうれしき」との歌を横笛に送った。

それに対して横笛は「そるとても なにかうらみむ あずさ弓 ひきとゞむべき こゝろならねば」と返歌を送り、奈良の法花寺(法華寺)にて修養の道に入ったようだが、平家物語では「いくほどもなくて遂にはかなく成りにけり。」と彼女が亡くなったことを記している。

一方、滝口入道は横笛が亡くなったことを伝え聞いて一層仏門修養に精魂込めていたところ父親も勘当を解いたというのが横笛の項の話の流れである。
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いろいろな意味合いで考えさせられるお話である。

上の写真は、光月亭。

奈良県月ヶ瀬村の民家を移築したものだが、18世紀の建築物と推定され、法華寺の一部としてうまく調和している。

月ヶ瀬は梅林があることでも有名な山間の村である。

法華寺に関してはこれにて終了。








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奈良龍大会・親睦交流会 於 【法華寺、海龍王寺】 〔4〕 [2009年11月07日(土)]

法華寺の拝観入口を入って正面方向に『からふろ』がある。

『からふろ』を漢字で書くと『空風呂』、つまりスチームバスと思って良い。

下の写真は『からふろ』の建物であり、室町時代後期に改築されたもので国の重要有形民俗文化財に指定されている。

敷石(甎・しきかわら)の一部は天平時代のものが残っているとか。
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※ 法華寺の「拝観のしおり」には室町時代後期の改築と書いてあるのだが、前掲の奈良県史では建物は江戸中期の建築としている。 果たしてどちらなのか、これは尋ねてみる以外にない。

この建物も通常は竹の結界があり建物の裏手へは入れないが、有難いことに焚き口の戸も浴室裏手の戸の鍵も開けて内部を見せてもらうことができた。

焚き口の戸は建物の右手にあるのだが、その入口を入ると半地下の位置に竈が設えられてあり竈には大きいお釜が据えられている。
釜の手前には半円形の分厚い木製の蓋が置かれ、奥の半円分は浴室の床下に埋もれている。
つまり、焚き口で薪を燃やすと竈に設えられたお釜の水が熱せられて湯気を出す。焚き口の方の手前半分は蓋をしてあるので湯気は出ず、湯気は浴室の床下に流れ込む。

下は建物内部の浴室であるが、浴室は木で囲われ、床の部分は簀子(スノコ)状に床板と床板の間に隙間が作ってある。
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上の浴室の写真、右奥部分の下にお釜の半分の部分が潜り込んでおり、お釜から出た湯気が浴室の床下に流れ込み、床板の隙間から浴室内に流れ込んで浴室がスチームバス、つまり蒸し風呂の状態になるのである。

光明皇后はお釜で薬草を煎じて1000人の者たちを入浴させ、重い皮膚病を治したと伝えられているが、この浴室は詰めて入ってもせいぜい10人が限度かと・・・。

実際に湯を沸かしてこの浴室に入ったわけではないので仕組みの上から想像するだけだが、浴室内の湿度は相当高く、温度は我慢しなければならないほどには高くならないのではないだろうか。
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左の写真は『犬のお守り』。

光明皇后が護摩供養の灰と清浄な山土で手ずから作り、諸人の病苦災厄難産を除くべく授けたのに始まるとというもので、歴代門跡がこれを相伝し、本尊に捧げて祈祷のうえ参拝者に授けている。

蒸し風呂=スチームバスと言えばローマ人のカラカラ浴場が有名であり、彼らが侵攻した地には遺跡として各地に残っている。

風呂の成り立ちという点では紀元前のエーゲ文明におけるバスタブが残っているが、これが最も古い遺物になるだろうか。これは湯、或いは水を入れて浸かっていたものと推量されるが、湯水を容器に入れて浸かる方式と湯気を発生させる方式の蒸し風呂という2つの形式が風呂と呼ばれる歴史を伝えてきたことは間違いない。

法華寺は蒸し風呂であるが東大寺には鉄製の浴槽(大鍋のような)が残っており、日本での風呂の歴史は奈良時代からと考えても良いようだ。

韓国には『汗蒸幕(ハンジュンマク)』や『岩盤浴(チムジルバン)』があるし、フィンランドにはサウナがある。 いずれもその起源については分からないが調べてみると面白そうだ。

ちなみに40年ばかり以前には日本の歓楽街でトルコ風呂というスチームバスが売春防止法施行後の風俗店として幅を利かせるようになっていた。

トルコ風呂というのはローマ風呂と同じで蒸し風呂と冷水風呂を用いた入浴方法であるが、日本でトルコ風呂の名前を冠した風俗店は売春を目的としており、トルコ側(大使館)からクレームが出て以後呼称が変更された。

現在、ファッション・ヘルスなどと名前をつけている風俗店がその流れを汲むものである。

俗世間とは縁の無いお寺のことを書いているのにそぐわない話であった。
Posted at 16:20 | この記事のURL | Clip!!

奈良龍大会・親睦交流会 於 【法華寺、海龍王寺】 〔3〕 [2009年11月07日(土)]

法華寺の由来については前のページで、藤原不比等(鎌足の子)の死後、娘である光明皇后がその邸宅を皇后(おほきさき)の宮とし、それを宮寺としたことが『続日本紀』・天平十七年五月戊辰条に『旧皇后宮為宮寺也』と記されていると書いた。
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左の写真は法華寺に拝観入口である。

写真の左下はアスファルト舗装道路で左方向に進むと法華寺南門の前を通って平城宮跡の大極殿跡の前に至る。

右手には法華寺の駐車場がある。


しかし、金光明寺写経所の天平十六年六月(744年)の文書記録に法花寺の名前が見えることから、皇后宮から宮寺になる前に法花寺という尼寺(国分尼寺)があったとし、正倉院文書のひとつ法華寺政所牒の天平十九年正月二十日(748年)の項に法華寺の名前が出てくるので、法華寺という名称はこれ以降のことであると奈良県史(平成3年)には書かれている。

細かな年号は史家に任せるとして、法華寺の造営は造法華寺司という役所が執り行い、東大寺は造東大寺司が受け持つというように国分(尼)寺の造営は国家事業であった。
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写真は桃山時代に再建された法華寺南門で、国の重要文化財の指定を受けている建造物である。

この南門のアスファルト道路の左手奥の方に平城宮跡がある。

門前の石柱には総国分尼寺・法華滅罪之寺と刻まれている。







下の写真は南門から本堂(金堂)を撮ったものである。
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この本堂も上の南門も、後に紹介する鐘楼、これらはいずれも桃山時代後期 1601年(慶長6年)から翌1602年(慶長7年)にかけて豊臣秀頼の母・淀君の発願で片桐且元が奉行となって再建されたもので、いずれも国の重要文化財に指定されている。


法華寺の伽藍が完成したのは782年(延暦元年)の頃で、本堂(金堂)、東西両塔、講堂、食堂、鐘楼、経蔵、中門、東門、南大門、更に南側には阿弥陀浄土院も配置された壮大な伽藍配置であったらしい。

この年に造法華寺司が廃止されているが、日本に仏教が伝えられて(538年)から二百数十年を経ている。

ちなみに歴史学研究編の日本史年表(岩波書店)や多くの学者は百済聖明王が仏像と経論を贈ってきたことをもって正式の仏教伝来としているが、日本書紀の記述によれば552年(欽明天皇十三年壬申)となっている。

記紀の記述内容に関しては信頼するには乏しい面が多いので、複数の根拠をもって主張される538年伝来説が正しいように思うが疑い始めれば限が無い。

で、下の写真は重文の鐘楼である。
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仏教の受け容れについては蘇我稲目と物部尾輿・中臣鎌子らの対立を生み、やがて彼らの子どもである蘇我馬子と物部守屋・中臣勝海の政権争奪戦に発展したことはよく知られていることである。

以後、仏教は政治を行う上での重要な支柱となり、朝廷や豪族(貴族)と寺・僧侶との結び付きも強くなっていった。

適切な言葉では無いが国家仏教と言えるほどの保護を受ける寺は律令政治の財政の冗費を生み、朝廷と寺の癒着は弓削の道教のような権力志向の僧侶を生み出すなど寺院・僧侶の腐敗・堕落を招くようになり、それらを刷新するようにして長岡京の造営、平安京への遷都と時代が変わっていった。

平安京には新たに東寺・西寺が造営され、平城京の寺が新京に移ることも無かった。

平安時代の初め頃は法華寺に入門する尼僧の数が増え、797年(延暦16年)には勅許が無いと入寺できないようになった時期があったらしいが、898年(昌泰元年)の記述(扶桑略記)では宇多上皇が法華寺の堂舎の破壊状況を見て嘆いたとあり、1180年(治承4年)には平清盛の命令によって南都を攻めた平重衡の焼討ちによって反平氏勢力であった東大寺、興福寺などと共に法華寺も焼かれたため東西両塔の他は堂宇の大半が灰燼に帰したらしい。(参考・奈良県史ほか)
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この当時については法華寺が「拝観のしおり」として配布する『光明宗・法華滅罪寺畧縁起』では「(略)しかしながら時勢とともに寺運ようやく衰え、中世の記録はさだかではありませんが、叡尊興正菩薩の再興、さらには豊臣秀頼公の外護、徳川氏の寺領二百二十石寄進などあったとは申せ、ついにほとんど旧来の寺観を失うて今日に及びました。(略)」と記しているように、都が京都に移って朝廷の絶大な保護の手から遠のき、政治権力が藤原氏に集中するのに付随するかのごとく南都においては藤原氏の氏寺である興福寺や氏神である春日社が勢力を持ち、東大寺を除く他の寺は衰退の一途を辿っていたようである。 (写真は浮御堂と本堂)

1192年(建久3年)の『建久御巡礼記』には「棟破甍顕、壇頽靡傾、春朝雨不留、秋暁風無障子」と法華寺の様子を描写している。 『本堂の棟が落ちて屋根の瓦があらわになり、お堂の壇は崩れて扉は傾いている。春の小雨を止めることも秋の明け方に吹く冷たい風を防ぐ障子も無い』と、それほどにひどい有様だということである。

1227年(嘉禄3年)に法隆寺の別当(住職)範円が記した解状には「僅見七代寺、東大・興福両寺仏法繁昌堂宇壮麗、元興・大安・西大寺所其衰滅無隆力、僅依寺務秘計暫支仏法慧命者、只薬師寺・法隆寺已」と書いているが、寺として栄えているのは東大寺と興福寺だけで、元興寺や大安寺、西大寺などは隆盛時の力も無く衰滅している。わずかに仏に帰依する者たちが将に細々と勤めを行っているのは薬師寺と我が法隆寺のみであるという意味であろう。
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写真は客殿や尼僧の生活の場である庫裏への通路であり、左手が本堂で突き当たりの建物が客殿である。

この門には『久我高照』と墨跡鮮やかな木製表札が掲げられていた。

通常写真のような木製結界があり、一般には出入りできない。

そのような荒れ果てた法華寺の修復を最初に行ったのが東大寺の大勧進職で、平重衡の焼討ちにあった東大寺の再建を担った俊乗房の僧・重源であり、御堂、塔2基、丈六仏を修復したとある。

その後本格的な復興を手掛けたのが西大寺中興の祖と言われている僧・叡尊(興正菩薩)である。

しかしその後1408年(応永15年)の火災で西塔が焼失。1499年(明応8年)戦国時代にあって室町幕府管領であった細川政元の家臣として赤沢朝経が大和を攻めた際に堂塔・僧坊が罹災、1506年(永正3年)にも兵火に遭って大方が滅亡。本堂のみ残材により再建するも1596年(慶長元年)の地震で倒れてしまったらしい。
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左の写真及び下の2枚の写真はいずれも国宝であり『絹本着色阿弥陀三尊及び童子像』である。

いずれも慈光殿(宝物殿)にて見ることは出来るが写真撮影は禁じられており、ここに掲載したものは売られていたものを複写したものであることを断っておく。

ところで前述した1596年(慶長元年)の地震であるが、この地震は「慶長伏見地震」と呼ばれ、有馬〜高槻断層系のものであったことが分かっている。

この地震の4日前に豊後地方で大地震が発生し、別府湾を襲った大津波によって現在の大分市地域の大半の家屋が流失するという大変な被害が起きている。地震規模は古書などによる推定であるがM7.0前後であったと言われている。




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前述したが淀君発願で1601年(慶長6年)から翌年にかけて本堂(金堂)・鐘楼・南門が再建されたが、1707年(宝永4年)の大地震で残っていた東塔が倒壊して現在に至っているようである。

法華寺について、「拝観のしおり」として配布されている『光明宗・法華滅罪寺畧縁起』で「中世の記録はさだかではありませんが」と書かれていた中世の部分を埋めるように書いてきたが、書き始めると結構奥が深いもので随分端折ったつもりであるがイマイチである。

法華寺は現在の宗派を光明宗としているが、西大寺中興の祖と言われる叡尊が法華寺の復興を手掛けて以来、真言律宗に属してきたことは分かった。






img20091107_4.jpgしかし元々の宗派、つまり叡尊が法華寺の復興を手掛けた以前はどうだったのだろうかと新たな疑問が起きてきた。

これについてはぼちぼち調べてみることとして、もう少し法華寺について書いてみよう。

【次ページに続く】 
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